起点:宮台真司・神保哲生の映画特集回(『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『ライフ・オブ・チャック』『誰だって無価値な自分と戦っている』)の書き起こしを読み込んだことから始まった対話。三作が吉本隆明『共同幻想論』の一点——「みんなのために死ねる」という共同幻想はまやかしであり、「あなたのために死ねる」という対幻想だけが真実である——に収斂していた。この問題提起をマココロの理念に照らして検討するなかで、「地球の庭師」という理念が一段ずつ脱構築され、最終的に無我(anattā)へ着地した。

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問いの出発点

この「みんなのため」批判は、マココロの「地球を元気にする庭師」という理念やSDGsと相反するのではないか——という栗田さんの問いから始まった。

八つの転回

① 抽象か、具体か。 宮台の批判の標的は「みんなのため」という言葉ではなく、それを自分のポジション取りの隠れ蓑にする抽象への逃避。SDGsにも顔のない「人類」を主語に目の前を素通りする抽象型と、目の前のこの人を元気にする積み重ねとして地球に至る具体型がある。マココロの「相手の今をちょっと元気に」は主語が「相手」「今」であり、構造的に後者。対幻想を積分した先に地球が見えてくる設計。

② 「地球」という言葉は嘘ではないか。 栗田さんの詰め——「結果そうなる」としても、今その言葉を使うのは時制の偽装=嘘ではないか。①動機として使えば嘘、②結果の予測として使っても危うい、③今この手つきの向きとして使うなら嘘ではない。「地球」は遠い目標地点の名ではなく、今の手つきの質の名前。そして、なぜわざわざ「地球」と言うのか=対幻想は放っておくと身びいきに縮むから(赤嶺さんの件がまさにそれ)。「地球」はその閉じへの歯止め、自分の手つきを点検する方位磁石。真であるための条件は一つ、外に誇る言葉ではなく自分に向ける問いとして使うこと。

③ 慈悲の瞑想の最終行として。 栗田さんが「自分に刷り込む言葉」と捉え直した。慈悲の瞑想は「私が幸せでありますように」から同心円で広がり、最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」に至る。「地球を元気にする庭師」はこの一番外側の一節。達成の報告でも約束でもなく、心が縮むと知っているからこそ毎朝そちらへ手を伸ばす所作——だから嘘になりようがない。

④ 「思えていない、だからこそ」。 栗田さんの告白——「正直に全然地球のことなんか思っていない。でもだからこそ、それを自分に刷り込むために行っている。」この否定は宮台の批判を先回りして自分の口で言ってしまうもの。「本当は関心がない、それを承知でこの語を使う」と認めた告白は、もう批判の的にならない。

⑤ 四行の標語(栗田さんがたどり着いた形)。

相手の今をちょっと元気に!
顧客の今をちょっと元気に!!
地域の今をちょっと元気に!!
地球の今をちょっと元気に!!!

慈悲の瞑想の同心円が並びそのものに刻まれている。ビックリマークが増えていくことが、すべてを畳み込む——遠くなるほど力を込めないと心が届かない。!の数は「手を伸ばすのに必要な力の量」であり、同時に「まだ思えていない」という告白の表現でもある。否定の言葉を書かずに否定の構造を句読点だけで表した。だから一層のまま、スタッフへの行動指針にも栗田さん自身への自戒にもなる。

⑥ 概念を手放し、実感を掴む。 栗田さんの言葉——「『地球の庭師』は概念です。『琵琶湖の自然に抱かれる幸せ』なら本物です。」ここで主語が反転。四行は「私が手を伸ばす」能動。「抱かれる」は自然が栗田さんを抱いている受動。育てる側ではなく生かされている側。「地球の庭師」が概念に浮いたのは能動の極み(一番遠いものを一番強い能動で抱えようとした)だったから。琵琶湖に抱かれて満ちた人だけが、相手の今に手を伸ばせる。受け身が先、能動が後。

⑦ 三つの言語が出会う。 栗田さんがLandmarkに重ねた——「アホらし劇場 → 意味なし空っぽ → 十分幸せだ」に相当する。順序が完全に一致。Landmarkの「十分幸せだ」とMettaの「自分が満ちる」が同じ一点を指していることが、琵琶湖の上の実感として確認された。「言語が切り分けるものを統合する」が、抽象論ではなく体験として起きた瞬間。

⑧ 空っぽの中身が違う。 栗田さんが「気づく/発見する」という能動の語を正した——「Landmarkではそれすら創作になる。私は単に気づいた、発見した。そして空っぽの意味が違う。Landmarkは何もない空っぽ、私は自然を空っぽと言う。そこに(自然の)リズムがある。『ある』ということは『ある』を言葉で作る必要はない。」ここで両者が決定的に分かれた。Landmarkの空っぽは何もない無=創作を待つキャンバス(言葉が現実を作る)。栗田さんの空っぽはもとから脈打っている自然=言葉の手前にあるリズム。Vipassanaがvedanāから入るのは、感覚が言葉の手前にあるから。手段としてのLandmark(創作の言語)と、根としてのVipassana・琵琶湖(言葉の手前の「ある」)が、正しく分かれ、正しく順序づいた。

最後の転回——流れが流れを観る

栗田さんがスマナサーラ長老の言葉に辿り着いた——「流れが流れを観る、ということかもしれません。」これで最後の主体まで抜けた。抱かれる主体すらいない。流れがあって、その流れが流れを観ている。無常(流れている)だから固定した観る者がいない(無我)。

そしてこれはマココロ=間心(あいだのこころ)の定義と重なった。マココロは栗田さんの中にある心ではなく、条件が揃ったところに灯る所有者のいないvitality。「相手の今をちょっと元気に」には最初から「私が」がない。栗田さんは三日間(この対話を通じて)理念から「私」を一枚ずつはがし続け、最後にmottoの中にもともと「私」がなかったことに辿り着いた。流れが流れを観るように、間心が間心を灯す。標語は、はじめからそう書かれていた。

たどり着いた構造

(言葉の手前・無我)—— 琵琶湖の自然のリズムがある。流れが流れを観る。抱かれる者も抱く湖もいない。「ある」を言葉で作る必要はない。観ること自体が流れの一部。創作ではなく、気づくだけ、言葉はいらない。