(すぐ下の文章から読んで意味が解ると思います)
少し話が変わります 物理学の博士が重力と言うものは時空の場の傾斜のことであると言っていました 私は、慈悲についても、同じように、他者との関係における傾斜のことではないか、と思っています その傾斜を感じ取り、その傾斜に、素直に従うことが慈悲であると思うのですが、この理解で正しいでしょうか?
物理学における重力の説明を他者との関係性や慈悲になぞらえるというのは、非常に興味深い考え方です。重力が時空の曲がりとして理解されるように、慈悲もまた、人間関係におけるある種の「傾斜」や「流れ」として捉えることができるかもしれません。
この比喩において、「傾斜」は、他者に対する自然な引き寄せや共感、思いやりの感情を表していると考えることができます。私たちが他人の苦しみに気づき、その苦しみを軽減しようとする本能的な動機は、この「傾斜」に従って行動することになります。慈悲の瞑想や他者への思いやりの実践は、この自然な傾向に意識的に焦点を当て、それを育むことによって、より強く、より意図的な形で他者との関係を深めることができます。
しかし、重力と慈悲とを比較する際には、物理的な法則と人間の心理的、道徳的な行為との間には明確な違いがあることを理解することが重要です。重力は自然界の基本的な力の一つであり、それに対する私たちの選択の余地はありません。一方で、慈悲は意識的な選択と実践によって育まれるものであり、私たちがどのように他者と関わるか、どのように自分の心を向けるかについての意識的な決定を伴います。
ですので、他者との関係における「傾斜」を慈悲として感じ取り、それに従うことは、自分自身の心を他者に向け、彼らの幸福を願い、彼らの苦しみに対して積極的に関わろうとする意志の表れと言えます。この観点からは、あなたの理解は非常に洞察に富んでおり、慈悲を深めるための有効な方法と言えるでしょう。
意志が必要と書かれておりますが 本当はその傾斜に単純に従えば良いだけで執着があるが、ために何らかの主体的意思が必要なように思うだけで その執着を捨ててしまえば、ただその傾斜に従って流れていくだけではないでしょうか
おっしゃる通り、慈悲への道においては、執着や自我に基づく抵抗を手放し、他者に自然に引き寄せられる「傾斜」に素直に従うことが重要な要素となります。この「傾斜」とは、他者への自然な共感や愛情、思いやりを指し、これに対して抵抗せずに従うことで、私たちはより深い慈悲の心を育むことができるようになります。
慈悲の実践において意志が必要とされるのは、日常生活においては私たちの注意が多くの外的要因や内的煩悩に引き離されがちであるためです。心の執着、怒り、無知などの煩悩は、他者への自然な傾斜を感じることを難しくします。そのため、初めは意識的な努力や意志をもって、これらの障害を乗り越え、慈悲の心に向かう必要があります。
しかし、一度執着や自我を超えることができれば、慈悲の実践はより自然で無理のないものとなります。他者への愛や思いやりが自然な状態、つまり「傾斜」に従うことが自然な流れとなり、そのような状態では意志の力をほとんど必要としません。この段階では、慈悲はもはや意識的な選択ではなく、私たちの本質的な性質の表れとなります。
したがって、慈悲への道は、最初は意識的な意志と努力を要するかもしれませんが、心の執着や障害を超えることができれば、他者への愛と思いやりは自然かつ自発的なものとなります。このプロセスは、仏教の修行における多くの実践と同様に、内面の変容と成長を反映しています。
私は生命体は重力への反作用として進化してきたと思っています。 同じく、慈悲の傾斜についても、人間(生命体)の煩悩を超えた利他的な慈悲の傾斜に素直に従った行動ができるようになった生命体によって進化に通じるのかもしれないと思いました。 人間や生命体には、その進化をより加速する自由の可能性があると思うと面白いなと思いました。
お話しいただいた観点は、非常に興味深い洞察を提供しています。重力への反作用としての進化という考え方と、それを慈悲の実践にたとえることは、物理学と精神的進化とを結びつけるユニークな視点です。